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2018年12月6日木曜日

胎生学



・・・ぼくらのこの家も、たぶんすこしづつ人間らしさを加えてくるに相違ない。機械でさえも完成すればするほど、その役割が主になって、機械それ自体は目立たなくなってくるのがつねだ。人間の生産的努力のすべて、その計算のすべて、図表を前の徹夜のすべても、外面的な現れとしては、ただ一つの単純化に達するに尽きている。一本の円柱、一本の竜骨、または一台の飛行機の機体に、女の乳房の、女の肩の曲線の、あの単純な純粋さを与えるまでには、多くの世代の積み重ねを積まなければならなかったのだ。研究室における技師たち、製図工たち、計算手たちの仕事も、外見的には、その翼を、それが目立たなくなるまで、機体についている翼があるという感じがなくなり、最後には完全に咲ききったその形が、母岩から抜け出して、一種奇蹟的な天衣無縫の作品として、しかし一編の詩品のようなすばらしい質をそなえて現れるまときまで、この調和を軽快にし、目立たなくし、みがきあげるにほかならないと思われる。完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去するべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。発達の極地に達っしたら、機械は目だ立たなくなってくるだろう。


上記の文章は、サン・テグジュペリが飛行機の完成について語った内容の一部であるが、この言葉は、人智学から見た、胎生学への洞察に通じていて、サン・テグジュペリの霊視的な哲学精神が思い起こされるのです。



個体発生が系統発生の連続であるという原則は、人間は胎児において諸動物の形態を想起させる諸形態を通過するという事実をもとにした原則です。胎児はある段階では、魚を想起させます。そのうように、動物界のさまざまな形態を繰り返すと胎生学は言います。

この事実はもちろん正しいのです。これは感覚によって観察されたものですから事実に即しています。ただ、この事実を判断する場合には、悟性の力が必要ですが、悟性は感覚の及ばないところまでは力を行使できないのです。つまり内部に真理能力をもっていなければ、誤謬に陥ってしまうのです。事実として見るものを、どう判断し得るか? そこにこそ、霊視の本質があるのです。

真理能力(事実霊視)から、この胎生学の事実を観察すると、つまり人智学的な解釈では次のようになります。人間の進化の過程で、人間は小さな魚の形態に似ていたことは一度もなかった。だから、この姿は、人間が進化の途上で魚の形態を外に押し出したものである。この形態は利用できなかったので、そういう形態に似た姿をとることは許されなかった。胎児が諸形姿として示している魚その他の一連の形姿はすべて、太古の人間ではなかった姿を、人間が自分の中から外に押し出さなければならなかった姿を示している。人間は、自分のものではない動物的な形態を外に押し出すことによって、人間の形姿を達成していったのです。



事実霊視においては、事実を霊的な領域に持ち込んで、事実そのものを不明にすることはありません。仮に、霊的な関与があってとしても、霊的な力は、事実に関与するための、事実としての事象を接点として有しているのであり、その事実を、霊的な干渉力と同一とみなし(事実としてそれは同等であるのですが)、この事実において霊を扱うことが、真理能力であるとするものです。

サン・テグジュペリの上記の言葉の中には、人間が未来に達成するであろうマナス、ブッティ、アートマンにも通じる箇所が見られます。




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